P08~09 つれづれ時事寸評31 水俣病第一次訴訟判決から50年と新たな司法による認定の意味 本研究所・水俣学研究センター 研究員 井上ゆかり (社会福祉学) はじめに  「あすこに(認定されていない)患者さんが3人いますよ。もう寝たっきり。あすこのお父さんは10何年寝たきり。不思議ですね。(略)今では何ていうんですかね、やっぱり、いや何か色々あって。まあ、どう言えばいいか分からんけれども、皆、寂しい気持ちじゃなかでしょうかね。ほんと、もうこれは殺人犯。私たちが落ち着く場所というのを、はやく会社は、一日でもはやく救済して責任とってくれといいたいですね。」水俣市茂道の漁師である杉本栄子が1968年1月に新潟の原告らに語った言葉である(水俣学アーカイブ、松本勉旧蔵資料、No.H002)。  昨年、第1号患者が公式に確認された年から67年、国が水俣病を公害と認定した年から55年、第一次訴訟判決から50年が過ぎた。こうした時間が経過するなかで、昨年9月27日に、水俣病不知火患者会近畿訴訟(以下、近畿訴訟)大阪地裁判決で原告128人全員を水俣病と認める司法判断が下された。今年の3月22日には同訴訟の熊本や東京での判決も控え、さらには第二世代(胎児性世代)訴訟や新潟の二次訴訟など現在10件もの訴訟が続いている。ここでは大阪地裁判決の内容と杉本栄子さんの「寂しい気持ち」「落ち着く場所」という言葉から、水俣病事件が終わることのできない意味を考えてみたい。 第一次訴訟判決とは何か  政府による公害認定の前年である1967年、新潟では3世帯13人が第一陣として原因企業である昭和電工を相手取り損害賠償を求める訴えを新潟地裁に起こした。その頃、水俣では被害を訴えることすらできない状況にあった。というのも、1959年12月30日の「見舞金契約」の第5条に「将来水俣病が工場排水に起因することが決定した場合においても新たな補償金の要求は一切行わない」という条文があったからである。当時のことを松本勉が「34年の見舞金契約に患者側も印鑑押しているでしょう。それを破れるか、提訴したら見舞金を打ち切るのではないか、など話もあってずいぶん考えた。」(松本勉ほか『水俣病患者とともに 日吉フミコ闘いの記録』草風館、2001年、272頁)と語っている。1968年1月に水俣に患者支援の水俣病対策市民会議(のちの水俣病市民会議)が発足し、松本はこの事務局長を務めた。新潟は、1965年6月に新潟水俣病が発見され、2カ月後には17団体による新潟県民主団体水俣病対策会議という患者支援体制ができていたため提訴まではやかった。しかし、水俣では見舞金契約第5条の壁が厚かったこと、「水俣病問題を口にすることはタブーの観」(『水俣病患者とともに?日吉フミコ闘いの記録』303頁)があり、公害認定後の補償交渉では一任派、自主交渉派、訴訟派に分かれることになる。訴訟派は、1969年に29世帯112人が原因企業チッソに企業責任と損害賠償を求め熊本地裁に提訴した。国が公害認定してはじめて水俣のタブーと5条の壁を乗り越え提訴したのが熊本の第一次訴訟である。  この第一次訴訟判決は、加害責任、見舞金契約を公序良俗違反で無効、請求権の消滅時効は消滅していないと判断し画期的であったものの、一時金の賠償命令のみであったため、患者がチッソと直接交渉するに至った。直接交渉のすえ補償協定締結に結びつく。締結に尽力した当時衆議院議員であった馬場昇が「患者、家族の本当の心は金ではなく、命を返せ、身体を返せということだ。(略)チッソ株式会社は、責任をどんなにとってもとり過ぎることはない。」とチッソとの交渉にあたっての心構えを記している(水俣学アーカイブ、馬場昇旧蔵資料、資料No.C496)。そのため補償協定書の前文には8項目にわたり謝罪と潜在患者の発見に尽力すること、住民の不安を常に解消すること、福祉の増進に務めることを約束している。  翌年には認定申請患者協議会が結成され、いわゆる未認定患者総申請運動が始まり、係争課題は加害責任追及から水俣病かどうかに変わっていった。こうしたなかで幾度も被害当事者は声を上げ続け勝訴し、結果として国は1996年の水俣病総合対策医療事業から2005年、2009年と3回「チッソとの紛争状態の終結」として「行政責任は今後追及しない」ことを条件に和解施策をとってきた。しかし、この和解は必ずしも被害当事者側が望んだ形ではなかった。だからこそ訴訟が継続しているのである。 不知火患者会近畿訴訟大阪地裁判決  いまも訴訟のなかで、「汚染の時期」「どのような症状があれば水俣病なのか」「感覚障害の変動の有無」が争われているのはご存じだろうか。  この近畿訴訟は、2009年に施行された「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」(以下、特措法)で出生年や指定地域外で対象にならなかった原告128人が、国、熊本県、チッソを相手に損害賠償請求を求め大阪地裁に提訴したものである。特措法は「(公健法の)判断条件を満たさないものの救済を必要とする方々を水俣病被害者」として認め、210万円の一時金(本人が希望すれば)と療養費を給付するもので、2012年7月に終了している。原告は不知火海沿岸から関西地域に移り住んだ人たちで、一番若い原告は1972年生まれとなっている。今回の判決は、このうち3つのことを示した。  1つめに、汚染の時期とひろがりの解釈を拡大した。特措法の対象者は1968年12月31日以前生まれまでであった。チッソがアセトアルデヒド製造を中止した年で汚染は終わったとされてきた。しかし、仕切り網が設置された1974年まで対象者を広げたことで汚染の時期を広げたと同義であった。さらに、特措法の地域指定で除外されていた天草市姫戸などの原告を認めたことで汚染のひろがりが認められた。  2つめに、何が水俣病であるかをあらためて示し、曝露歴があり、四肢末端優位に、又は全身に感覚障害がある場合は、四日市ぜんそくや原爆症、ヒ素中毒などより可能性が高いと判断した。  3つめに、感覚障害の変動があったとしても否定する材料にはならないとした。2017年の新潟水俣病東京高裁の「所見の大きな変動が見られることが大脳皮質性の感覚障害の特徴であるとする医学的知見もあり、現に、行政認定患者において所見の大きな変動が見られた例も多数ある」という判決を支持したといえる。国、熊本県、チッソはこの判決を不服として控訴した。 第一次訴訟から50年  最後に2013年に溝口訴訟最高裁判決で勝訴した方を紹介しておきたい。母親が1974年に公健法上の認定申請をし1977年検診途中で死亡した。息子に熊本県から1通のハガキが届いたのは21年後で「公的資料がない」として棄却を知らせた。息子は21年間母の命日に県に電話すると「検討中です」の一点張りだった。その後、行政不服審査請求をして棄却、2001年に熊本県に対し棄却処分取消訴訟、2005年に認定義務付け訴訟を熊本地裁に提訴。この訴訟で水俣の病院に母親の感覚障害と「水俣病の疑い」と記された診断書がみつかる。実は県は死亡した17年後にその病院の調査を行っていたにもかかわらず「資料がない」として棄却していたのである。原告である溝口秋男さんが熊本地裁で敗訴したときに書いた墨書は、怒りを国家権力に叩きつけるような「壁」という文字だった。  1988年に加害企業の刑事責任が認められ、2004年に国と県の責任が確定したものの「司法と行政の判断は別」として1977年の水俣病の判断基準は見直されず、溝口訴訟最高裁判決で感覚障害だけでも水俣病と司法が判断したことで、今度こそ認定制度が見直されると誰もが思っていたが、判断条件を「新通知」と名前を変え「総合的に判断する」という曖昧な表現を追加したのみで認定制度は何も変わっていない。2023年7月現在、公健法上の認定申請を行い、熊本県知事の処分を待つ370人のうち6人は死亡、15人は申請から10年以上が経過している。  補償協定書には、「潜在患者に対する責任を痛感し、これら患者の発見に努め、患者の救済に全力をあげることを約束する」とある。この約束は未だ実現されず、被害当事者が訴えることでしか被害を社会に表出できない。杉本栄子さんが表出した「寂しい気持ち」は、被害実態と乖離した?「救済」で深淵化している。被害当事者が「落ち着く場所」、患者として認められる場所が曖昧なままの50年であるといえよう。